シャルコーと三浦謹之助の師弟関係

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May 22, 25

スライド概要

第66回日本神経学会のシンポジウム「シャルコー生誕200年特別企画 シャルコーと神経学」で使用したスライドです.

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岐阜大学大学院医学系研究科脳神経内科学分野 教授

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各ページのテキスト
1.

シャルコーと三浦謹之助の師弟関係 下畑 享良 岐阜大学大学院医学系研究科脳神経内科学分野

2.

日本神経学会 COI 開示 筆頭発表者:下畑 享良 岐阜大学大学院医学系研究科脳神経内科学分野・教授 本発表に関連し,明示すべきCOI関係にある企業などはありません. いくつかのイラストはAI(ChatGPT/DALL·E)で生成しました.

3.

はじめに • パンデミック禍において,機能性神経障害の患者の 診療を多数経験した. • シャルコーが普仏戦争時に増加したヒステリー患者に どのように向き合ったのかに関心を持った. • シャルコーについて勉強を進める中で,三浦勤之助との 師弟関係に強い興味を持った. Jean-Martin Charcot(1825-1893)

4.

三浦謹之助はCharcotを生涯の師と仰いだ • 三浦謹之助は日本の内科学者であり,特に 神経学の分野で大きな功績を残した. • 1890年からドイツやフランスに留学し,パリでは シャルコーに師事した. • 当時,シャルコー67歳,謹之助28歳. 弟子として 学んだ期間は8ヶ月に満たなかったものの, 謹之助はシャルコーを生涯の師として仰いだ. 三浦勤之助(1864-1950) 安芸基雄.臨床神経33:1259-64, 1993

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目的:謹之助とシャルコーの師弟関係について知りたい! 方法:謹之助のことば・手紙におけるシャルコーに関する記載をまとめる. 一医学者の生活をめぐる回想 三浦紀彦(長男:三菱銀行) 福武敏夫先生所蔵.昭和30年 三浦義彰(次男:千葉大学名誉教授) 三浦恭定(孫:紀彦の子) 自治医科大学名誉教授

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三浦謹之助先生.加藤豊次郎 編集 三浦謹之助先生生誕百年記念会準備委員会/昭和39年 大正4年頃の家庭 謹之助,妻教子,長男紀彦,次男義彰

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シャルコー に出会う まで 謹之助 から見た シャルコー 帰国後の 謹之助

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謹之助の生い立ち • 元治元年(1864:禁門の変,第1次長州征伐), 現在の福島県伊達市保原(ほばら)町にて出生 (父は眼科医,祖父も医師). • 1877年に上京.外国語学校ドイツ語科を経て, 1878年,東京帝国大学医科大学予科入学. • 1883年,本科に進学. Erwin von Bälz(1849-1913) • 1887 年,卒業.ベルツの助手となる. 「エフェドリンの散瞳作用」に関する論文を発表.

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26~28歳(1890~1892)ドイツに自費留学 • ベルリン大学で内科学をゲルハルト教授,神経学オッペンハイム教授,ハイデルブルグ 大学で神経学をエルプ教授に学ぶ. • 最も尊敬していたベルリン大学の ゲルハルト教授に「将来は神経病 学を勉強したい」と相談したところ, 同教授が即座にシャルコーを推薦, 自分が紹介すると言ってくれた. Carl Jakob Adolf Christian Oppenheim Hermann Gerhardt(1833-1902) (1859-1919) Wilhelm Heinrich Erb (1840-1921)

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28歳,予定になかったフランスに留学する (1892年初め) • 言葉に苦労したと思われたが,謹之助は講演で以下のように述べている. • 「仕方なしに朝から晩までパリ医科大学のいろいろの講義を聞いて回りました. そうすると一週間程経つと慣れて耳に聞こるようになりました.諸君もフランスに お出かけになるときにはそう言う方法をお取りになったほうが近道です」 • 事実,謹之助は短期間のうちにフランス語をマスターし,論文を書いている 「上肢のヒステリー性単麻痺三例(1892)」

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シャルコーは謹之助に優しく接した 三浦義彰.千葉医学76:265-271, 2000 • 謹之助は名士達が集うシャルコー邸の晩餐会に招かれ,ワインの貯蔵法やパーティの メニューづくりの仕方まで教わった. • 朝,病院への道の途中でシャルコーの馬車に乗ることを 勧められた際,「もうすぐですから」と遠慮しても「構内は 広いから」と同乗させた.謹之助はこの話をするたびに 目を潤ませるのが常であったそうである.

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シャルコー に出会う まで 謹之助 から見た シャルコー 帰国後の 謹之助

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謹之助からみたシャルコーの人柄 三浦義彰.千葉医学76:265-271, 2000 「本当に偉い人というのは態度や物言いが やさしくて,誰にでも親切なものだ.シャル コーもパストゥールもドイツの教授たちの ように辺幅を飾らないよ.そして言うことが 順序だっていて,無駄なことを言わないね」 Jean-Martin Charcot (1825-1893) Louis Pasteur (1822-1895)

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謹之助からみたシャルコーの人柄 三浦義彰.臨床神経33:1255-1258,1993 シャルコーは若い人たちと飲むことも好きだったようで, ラ・サルペリエールの一室が夜遅くまであまり賑やか だったので,婦長が注意しに行ったところ,ドアを開け たら正面にシャルコーの姿が見えたので引き下がって しまったというエピソードが謹之助により語られた. (翌日,シャルコーが婦長に大目玉を食らった) Marguerite Bottard (1822-1906) Walusinski O. Eur Neurol. 2011;65:279-85.

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謹之助によるシャルコーの仕事 三浦紀彦編:一医学者の生活をめぐる回想:名誉教授 三浦謹之助の生涯.医歯薬出版, 1955.7 • 「臨床家で偉いという人には,西洋ではよく観察して,そうして経験を積む人と,もう 一つはたくさん仕事をする人(=論文を書く人)と両方あるのです.シャルコー先生などは その両方を兼ねているわけです.本当はそうやらなくちゃいけないと思います」 • 「エルプという人は普通の臨床講義をやるだけで,回診のほうはゲルハルト先生より 別段そう大して詳しい方じゃない.シャルコーですよ,1番患者を詳しく診た人は」

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シャルコーの診察方法 三浦義彰.臨床神経33:1255-1258,1993 「総てシャルコー先生は物を観察することに重きを置く,目で 観察する.その観察にも初め大体のことを見て,それから 細かいところに入る.例え,顕微鏡の標本を見る場合にも, 初め拡大の弱いので見て,標本の全体を見,それから全部 的に拡大してみると言う.このことは,ドイツの病理解剖学 者のウェルヒョー先生も同じでありました」 Rudolf Ludwig Karl Virchow (1821ー1902)

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シャルコーの診断方法 瞬間診断(Augenblicksdiagnose) 三浦義彰.臨床神経33:1255-1258,1993 • フランス人であるにも関わらず,ドイツ語のAugenblicksdiagnose(Augenblick= 瞬間の)ということをよく言っていた. • 患者が室内に入ってくる動作を眺めたときにひらめく第六感に近いもの,もしくは 特徴的な身体徴候により瞬間的に診断がつくこと. • シャルコーは瞬間診断をして,それを頭にしまっておき,2週間の綿密な診察の結果, 最終診断を下した.瞬間診断の方が剖検成績とよく合致することが多かった.

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火曜講義の準備のしかた (瞬間診断を可能にする背景) 「患者を講堂に連れてきて聴衆に見せるまでに毎日自分の 部屋に呼んで弟子と共に之を研究して,少なくも二週間は 診たものであります.私は幸いにしてこの時に部屋で立会う ことのお許しを得まして,始終一緒に診ました.そういう風に して宅に帰ってからは文献を調べて,そうしてまた明日来て 患者に就て調べられると言う風にして,それから初めて講堂 で講義をされたのですから,その言われることは自然に文章 を成していました」

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サルペトリエールでの臨床講義 (Une leçon clinique à la Salpêtrière, Brouillet 1887) パリ第5大学(パリ・デカルト大学) の医学史博物館

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シャルコー に出会う まで 謹之助 から見た シャルコー 帰国後の 謹之助

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帰国後,謹之助はシャルコーに2通の手紙を送った 謹之助がシャルコーにあてた 留学期間を通じてのご厚情を 謝すというシャルコー宛ての 手紙 三浦謹之助.神経内科62:1-4, 2005

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2通目の手紙には極めて重要な内容が書かれていた 岩田誠.科学医学資料研究251:8-12, 1995 • 1通目は,それまでに訪ねた土地とそこで診た病気のことを報告している • 2通目は,1893年の年始の挨拶状で,極めて重要な内容が書かれていた. • 現在は内科一般の診療をしているが,将来は神経疾患に焦点を絞って診療したい と述べ,「私は医学部に対し,医学部附属病院に付属する,神経疾患のための 部門の新設を進言するつもりです」と書かれている. • 同年(1893年),シャルコー逝去.

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1894年,帝国議会に 神経学講座設置の提案がなされた 葛原茂樹.臨床神経60:1-19, 2020 • 1894年(明治27年)長谷川泰が衆議院に帝国大学医学部に「脳 脊髄疾患を研究する講座と病室の新設」,すなわち「欧州(特に 仏国)のように通常の内科からは独立した脳脊髄疾患を研究す る講座と病室を新設し三浦謹之助助教授を教授とする」が建議 され,9 名の委員による調査に託されたが,可決には至らな かった. • 1895年,謹之助は東京帝国大学医科大学第一講座教授に 就任し,これ以降,神経学講座設置の動きは消え,謹之助自身 も内科学創設に専念する立場に変わったこともあって,神経学 は次第に衰退した. 長谷川 泰(1842-1912) 幕末期の越後長岡藩軍医 衆議院議員

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もしも・・・ 我が国の神経内科学を確立し,日本神経学会の設立に 尽力した冲中重雄先生 「もしも1894年に帝国議会において,神経学講座設置が 可決され,多くの大学に神経学講座が設置されていたら, わが国の神経学は欧米に遅れることなく発展していたか もしれない」 冲中重雄(1902-1992)

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もしも・・・ 岩田誠.科学医学資料研究251:8-12, 1995 岩田 誠先生 「戦後米国から入ってきた神経内科学が,わが国において独立した部門となるのは 1964年で,それより70年も前,すでに三浦謹之助は神経内科学が診療科として独立 すべきこと,そして独立した大学の講座であるべきことを提言しており,しかもその モデルは師シャルコーが築き上げたフランスの神経内科学であった.もしこれが実現 していたなら,わが国の神経内科学の歩みは今とはずいぶんと異なったものになっ ていたであろう」

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教授となった謹之助 高橋昭.神経内科 51:1-12, 1999 高橋昭.臨床神経 53:926‒929, 2013 • 31歳で内科学第一講座の教授になり,首下がり病(Kubisagari)などを研究した. 頭部の下垂,眼瞼下垂,眼底充血,咀嚼運動障害, 体幹・四肢の不全麻痺を呈する.

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教授となった謹之助 高橋昭.神経内科 51:1-12, 1999 高橋昭.臨床神経 53:926‒929, 2013 • 31歳で内科学第一講座の教授になり,首下がり病(Kubisagari)などを研究した. 頭部の下垂,眼瞼下垂,眼底充血,咀嚼運動障害, 体幹・四肢の不全麻痺を呈する. 地方病的・家族的に発生すること,発作性に生じる こと,予後良好なことから重症筋無力症とは異なる と記載した(原因がウイルスらしいと考えていた). シャルコーに報告する価値があると考え,八戸地方 まで診察に出かけた.時間をかけて調査したが, シャルコーの訃報を聞き,がっかりして書く気がなく なり,日本語の論文を1つ書いただけであった.

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謹之助のヒステリー研究 江口重幸.「シャルコー(勉誠出版.2007)」 • 「上肢のヒステリー性単麻痺の三例(Archives de Neurologie. 1893)」 Miura K. Sur trois cas de monoplégia brachiale hystériques. Archives de neurologie. xxv (75):321-356. 1893 • 1885年から1890年までのフランスで報告された28例に,謹之助が診た3例を加え てまとめたもの.Pierre Janet の医学博士学位申請論文にも引用されている. • 各症例の特徴や,静電気や握力計を用いて心理的効果を狙った治療経過などが 記載されていた.シャルコーのヒステリー理論の核心部分を最も継承しようとした のは勤之助だったのかもしれない.

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謹之助はシャルコーの死後も その教えを守った 三浦義彰.「シャルコー教授と三浦謹之助」 シャルコーの世紀(1994) • シャルコーの死後,バビンスキーは,pithiatisme (ピティアティスム) という概念を作り出して,ヒステリーは暗示によって生じる可逆的な 機能障害であると強調した. • ヒステリーと器質的疾患の鑑別にこだわり,バビンスキー徴候など を駆使して,見かけ上の麻痺と本当の麻痺の区別を行った. • 謹之助はこれに対し疑義を挟み,シャルコーの教えに忠実であった. • バビンスキーではなく,ピエール・マリーと親しくした. Joseph Jules François Félix Babinski (1857-1932)

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24回のうち2回ヒステリーの講義を 行っている(1914:大正3年) 視神経結核による結核性髄膜炎 小脳橋角部腫瘍 左同名半盲および左片麻痺(神経膠腫を疑う脳腫瘍) 片麻痺および失語を伴う同名半盲 錯語(失語症の一型) 僧帽弁閉鎖不全による血栓塞栓症 脳橋部脳梗塞 多発性脳神経麻痺 神経梅毒および中枢性尿崩症 神経梅毒(進行麻痺) 筋萎縮性側索硬化症(球麻痺を伴う例) 脊髄内出血(脊髄出血) 筋ジストロフィー 眼性片頭痛(片頭痛に振戦を伴う) ヒステリー(強直性発作) テタニー(低カルシウム血症などによる) ハンチントン病またはシデナム舞踏病 ヒステリー(転換性発作および転換性失声) 痙性斜頸および慢性腎疾患 間欠性跛行 アジソン病 肝疾患の臨床診断 肝硬変 鍼治療に関する考察

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謹之助はサルペトリエール学派として 研究に取り組んだ 江口重幸.「シャルコー(勉誠出版.2007)」 • マリーの遺伝的小脳性運動失調症(1898) • 筋萎縮性側索硬化症の考察(1902) • いずれもドイツ語で書かれた論文であるが,それぞれマリーとシャルコーの業績に 敬意を払い,かつヨーロッパの事例に自験例を加えて考察したもので,サルペトリ エール学派の面目躍如たる内容となっている.

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ALSの論文でシャルコーについて述べた (1902;明治35年) 2症例の臨床病理報告で,錐体路線維の 変性所見を詳細に報告した. 「千八百六十五年以来我師シャルコーㇵ 之ヲ特殊ノ疾患ト為シ,他ノ筋萎縮ヲ伴ウ 諸症ヨリ分チ千八百七十二終ニ本症ノ記 載ヲ完成セシ以来ハ殆ント之二加フルノ 余地ナキニ至レリ」

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謹之助は教授として読書と語学の大切さを語った • 「毎日少なくとも2時間,みっちり読書の時間を作ることを心掛けよ」 • 「本邦の学者は良い仕事をしても語学力不足と発表方法の不手際 から,せっかくの努力があっても世界の舞台で競争できない」とよく 述べていた. 三浦謹之助先生.加藤豊次郎 編集

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教授退官後の謹之助 • 明治天皇や大正天皇の診察などにより皇室との関係が 深かったため,宮内庁病院から侍医にならないかという 誘いもあった.しかしシャルコーが大変大勢の患者を 診ていたことに倣い,その誘いを断り,定年後は同愛 病院という関東大震災の時にアメリカの援助でできた 病院の院長として勤務した. • 1928~1929 年に『三浦神經病學』を刊行した. 高橋昭.神経内科 51:1-12, 1999 高橋昭.臨床神経 53:926‒929, 2013

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三浦神經病學(巻一,巻二)(1928~1929:昭和3~4年) 岐阜大学図書館所蔵

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謹之助が記載した誘導篇 咬筋反射 Mendel-Bechterew reflex

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謹之助は日佛協会の理事として,日仏の架け橋となった • 日本とフランスの文化,経済,学術など の交流を促進することを目的とした 日佛協会の理事として活動した. • 葉書は昭和23年(1948年)7月9日に 書かれたもので,理事を受諾した御礼 の返事である. 演者所蔵

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謹之助先生のお墓参り • 1950年(87歳),橋出血で急逝した. • 墓地は東京都台東区谷中谷中霊園に ある. • 学会で講演させていただくことを報告し てきた.

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シャルコー先生のお墓参り(2019.9).スタンダールやドガ,ベルリオーズなど著名人も 眠るモンマルトル墓地を訪れ,お墓参りをした.シャルコー家の墓地は祠型で,お参り をしてから中に入ると先生の名前を見つけることができた.

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Discussion

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① 謹之助は「臨床家シャルコー」に傾倒した 加藤豊次郎(編).「三浦謹之助先生(1964)」 • シャルコーには明晰な理論家・科学者としての側面と,柔軟にして強靭な臨床家として の側面がある. • 後者に関して,シャルコーは治療的選択肢が少ない状況でも,症状の改善につながる のであれば,通俗的とされる治療法でも試みた. • 謹之助は,何よりもこうした「臨床家」シャルコーに傾倒したと語っている.実際に, 自身も治療に熱心に取り組んだ. • 謹之助は晩年に至るまで,シャルコーの直弟子であることを誇りにした.

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② 日本の神経学はフランスから 大きな影響を受けた 岩田誠.シャルコーの世紀(1994) • 日本の臨床神経学は,しばしば戦後米国に留学した 椿忠男教授や黒岩義五郎教授がその源流であると 考えられている. • しかし実際にはそれよりずっと以前にフランスから, 1)シャルコーの弟子である三浦謹之助先生を通して, 2)「火曜講義」を日本語訳した佐藤恒丸先生を通して, 日本に導入されていた.

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佐藤恒丸(1872-1954)

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おわりに • シャルコーが築き上げたフランスの神経学は,謹之助にその精神とともに伝授された. • 謹之助が弟子として学んだ期間は8ヶ月に満たなかったが,臨床家としてのシャルコーに 強く惹かれ,生涯の師と仰いだものと思われる. • 1925年(大正14年)はシャルコーの誕生百周年に当たり,その際,謹之助はパリに 電報を打ち,花瓶を送って先生の像の前に供えた.今年11月に二百周年を迎える. 日本でもシャルコーと謹之助の偉業を振り返る機会にしたい.

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謝辞 貴重な資料,およびご助言をくださった,岩田誠先生,福武敏夫先生に御礼申し上げます.